以前から拝見している
Clala-Flalaから、
クラシック音楽の垣根・・・?にTB。
追記:上記エントリのTB先である、音楽ジャーナリスト林田直樹さんのブログ
LINDEN日記の記事
アマゾンにモーツァルト・ストアがオープン/石田衣良のモーツァルト本にTB。
このエントリを読んでから、今までぼんやりと考えていたことがある意味ますます曖昧模糊としてきたようです。音楽作品の価値とはそもそも何なのか。音楽を聴く人の感受性は、音楽そのものとは切り離されて考えるべきものなのか。クラシック音楽というジャンルが持つ固有の意味とは?
音楽という芸術が人類という壮大な聴き手を要求するものである限り、これらに一つの答えをあてはめるのは難しいようにも思います。
ただ私は、「音楽に感じることができる人間という生き物は素晴らしい」「しかし悲しいかな、私には、音楽の至高性という絶対的な価値をすべて受け取るだけの感受性は備わっていない」と思いつつ音楽を聴いてきました。
感受性という個人の個性は、もちろん多岐なもの。ある人にとっての<ミューズ(芸術の女神)>もほかの誰かにはミューズではあり得ないでしょう。
けれどもそれはそれとして、音楽には、言ってみれば個人に無関係に、絶対的な重さを帯びているものがあるのではないか。バッハや古楽が好きな私ですが、たとえばモーツァルトの良さ(あの「疾走する悲しみ」も含めて)というものがあまりピンときません。しかし、モーツァルトの凄さ、偉大さを感じていないかというと、どうもそうではないのです。
偉大な音楽、というものを客観的に認めることで、もしかしたら私は、音楽に<天からの贈りもの>という意味合いを見いだしたいのかもしれませんが。