決めつけたくない。

内田樹氏の本をなにか読んでみたいと思い、小林秀雄賞を取った「私家版・ユダヤ文化論」を買ってきた。私がベルギーでとてもとてもお世話になった女性はユダヤ人で、暫く途切れていた音信がごく最近復活したところなので、ずっと考えてきた(世間では言い古されている)疑問<何故ユダヤの民は優秀か>について少し突きつめたくなったというのもある。もちろん、クラシック音楽の世界で、どれだけたくさんのユダヤ人音楽家が活躍してきたかは言うに及ばず…。

当然ながら、民族という括りを振り回すだけの単純思考には興味ないつもりでいる。が、気がつくと身の回りには括り論法みたいなものが案外あふれていて、本気でそんな理由づけに満足してるの?と自問自答していることもあったりする。ちょっと前の松本某B型事件しかり、括って思考停止できるとラクチンという罠はコワイ。

ところで、内田氏のサイトのエントリ⇒「ラジオについて」にはたいへん共感させていただいた。ラジオを愛する人、ひいては、音楽も含めて<音>というものをきちんと聴こうとする人なら、思わず頷くのではと思う。

声の深い人は、「多声的」(polyphonique)である。
一人の人間なのに、その声の中に「複数の声」が輻輳している。
大人の声に少年の声がまじり、おじさんの声におばさんの声がかぶり、謹厳なサラリーマンの声にやさぐれた悪漢の声が唱和する。
だから、その中のどれかに聴き手は「自分の周波数と合う音」を聴き出すことができる。
多声的な人は、いわば「ひとりオーケストラ状態」を実現している。
聴き手はそこに「和音」を聴くこともできるし、ある一つの楽器のフレーズだけを選択的に聴くこともできる。
この聴き手に与えられている「居住域の広さ」が聴き手に「ほっとする」感じを与えるのである。

こういう「多声的」声の持ち主、ラジオ・パーソナリティをはじめ何人か思い出せる気がします。ちなみに私は、けっこう声フェチ…。

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by skyblue_2 | 2011-08-29 20:38 | デイリーライフ
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